Monday, October 31, 2016

漢字の80%は形声文字。



漢字の成り立ちを続けよう。象形文字、会意文字の次は形声文字である。まずは形声文字の解釈を国語辞典から借用しょう。“意味を表す部分、音を表す部分の二つを組み合わせてある語に当てる方法。また、その文字。たとえば、「銅」は「金」が金属の意。「同」が音を表す”とある。
同じを意味する“同”の音読みは言うまでもなくドウである。洞、銅、胴は、(ドウ)を音符とした形声文字ということなのだ。そして、さんずい、金偏、肉づきが意符ということになる。だが、決して意味を知らせてくれるものではない。これらは部首と呼ばれる。「氵」で水と関連し、「金」で金属と関連し、「月」で肉体と関連することを示してくれる。あくまでもその領域を明かしてくれるだけなのだ。
漢字というのは便利である。言偏が付くと、すべてが言葉や話しかける動作に関連する漢字だということを知らせてくれる。証、認、誤、誌、語のように。そして、これらの音読みは音符に従えば良いのである。正、忍、呉、志、吾と読んどけば間違いはない。木偏が付くと、もちろん木に関係する領域である。枝、板、枯、格、校、株、棟は、支、反、古、各、交、朱、東という音を持った、木と関連する形成文字ということなのだ。そしてこの形声文字が、何千も何万もあると言われる漢字の80%を占めるのである。

とここまで書いて、少々気にかかることがある。「たいへん説得力があるんですけど、私は表意文字ということを捨てきれません。何と言っても、漢字を見るとすぐに意味が思い浮かびますもの」という声が聞こえて来そうだからである。無理もない話だ。生まれた時から漢字は表意文字であると教わり、固く信じて来られたわけだから。
では、紅白歌合戦の「紅」を例に上げてみよう。工を音符とし、糸偏を意符とする形声文字だから、音読みはもちろん「コウ」である。そして「工」は、“にぎりどころのついた工具(さしがね)の形に象る”象形文字なのだそうだ。糸偏に工具の工では、決して(べに)の意味は見えて来ない。
もう少し説明を加えよう。
 清 晴 請 精 静
どの漢字も青が含まれるが、意味の上では、どれも‘青い’との結びつきはない。“青い空で晴れとなる”というほどのこじつけは成り立つかも知れないが。清も請も、青を意味しない。ましてや、静に青の意味があるはずもない。つまり、「清 晴 請 精 静」という形声文字は、「セイ」という音を知らせてくれ、「氵 日 言 米 争」という領域を示してくれるだけなのである。

では、何故に漢字を見るとすぐに意味が思い浮かぶのだろうか。その答は言うまでもない。訓読みにあるのです。国語辞典の助けを借りよう。訓読みとは、“漢字をその字の意味にあたる日本語で読むこと”なのだ。つまり我々は、漢字を習い始めた小学生の時から、漢字と訓読みをセットにして脳というコンピューターに入力し続けた。清い、晴れ、請う、精しい、静かというように。つまり、漢字を見るとすぐにその意味が思い浮かぶのである。
先ほどの「紅」に戻ってみよう。我々はこの紅という漢字を、コウという音読みと共に‘べに’あるいは‘くれない’という日本語の意味を脳というコンピューターに焼き付けたのである。江しかり、貢しかり、項しかりである。「コウ」という音読みを入力しながら、同時に()(みつ)ぐ、(うなじ)という訓読みも脳に入力したのだ。それ故に、漢字が視覚を通して入ってくると、すぐにその意味が思い浮かぶのです。
象形文字のところで、「多くの日本人が、漢字は象形文字だから一目でその意味が分かるのだと理解しておられる。これは間違いではないが、非常に片寄った見方と言える」と書いた。繰り返そう。訓読みというのは、“漢字をその字の意味にあたる日本語で読むこと”なのだ。漢字を見ると一目でその意味が分かるとは、そういうことなのである。

先にも書いたが、何千・何万にも上る漢字の80%は形声文字である。ただ、日本語における形声文字には、少なくない例外があるので書き記そう。
鉄は形声文字である。我々はこれを「テツ」と読む。だが、これを形声文字の原則に従うと「シツ」と読まなければならない。本来の漢字が「鐡」だったからテツと読めるのだ。独も同じで、形声文字の原則通りに行くと「チュウ」である。これも元々は「獨」だったのだ。
仮定の仮は、元々「假」だったから「カ」と読めるのである。休暇の「暇」は()を音符とする形声文字であり、朝焼けや夕焼けの美しい色取りという意味の霞彩(かさい)の「霞」も同じである。「(えび)」も音読みはカなのだ。
これらは、戦後に大々的に施された漢字の簡略化が、形声文字の決まりを無視して行われたからに他ならない。
恋は、簡略化の前は戀だった。だから「レン」と読めるのだ。恋を「糸し糸しと言う心」と言い表せたのは、本来の漢字が戀だったからである。痙攣の攣も、音読みはレンだ。孌も孿もレンと読むのだそうだ。

象形文字、会意文字、そして形声文字を説明した。これくらいで漢字の成り立ちを終わりにしょう。と書くと、おそらく「いや。漢字は六書(りくしょ)といって、六つに種別されるのだが」と思われる方がいらっしゃるだろう。まさにその通りである。六書には象形・会意・形声の他に、指事・転注・仮借(かしゃ)が含まれる。ただ、これはあくまでも自分勝手な思いからなのだが、これらはあらためて説明するほどでもないので省くことにした。興味のある方はご自分でお調べください。

Thursday, October 13, 2016

象形文字



前置きが長くなった。「すごいぞ!ニッポン語」と題した文章を書こうとしている。それには、日本列島と朝鮮半島および中国大陸との関わり合いを抜きにしては成しえない。そこで、まずはその出会いから書き置こうと思ったのだ。ご理解いただきたい。
日本語は不思議な言語である。英語はアルファベットという文字一つであり、中国語も漢字という文字一つである。世界のほとんど全ての言語がそのことは同じであろう。例外は韓国語だろうか。漢字を放棄して以降はハングルのみであるが、時々漢字が見え隠れする。
日本語である。まずは漢字があり、ひらかな、カタカナ、ローマ字がある。英語が生のままで使われてもいる。数字はアラビア数字が主だ。そうそう。横書きがあり縦書きがあるのも日本語だけである。世の中広しと言えども、これほど不思議な言語はないだろう。 

日本語を語る場合、まずは漢字である。漢字なくして日本語は有り得ない。では、漢字の成り立ち、あるいは漢字の構造ということから始めよう。
普通の日本人が漢字と聞いてまず思い浮かべるのは、象形文字ということであろう。そして多くの日本人が、漢字は象形文字だからその意味が一目で分かるのだと理解しておられる。これは間違いではないが、非常に片寄った見方と言える。数千、数万と言われる漢字の中で象形文字の占める数は600ほどに過ぎないからである。
象形文字を少し拾ってみよう。山、川、木などがその典型であろう。とここで質問です。物の形をなぞって作られたのが象形文字なのだが、何故に「(ぞう)」という漢字を用いるのでしょうか。
答は、象の訓読みが「(かたど)る」だからである。人、口、火、日、月、車なども象形文字である。みなが、それぞれの形を象っているわけだ。すると、車がどうしてという声が聞こえてきそうだ。車を横に倒してやると車輪が二つ見えてきますね。目も横に倒すと目を象ってます。
象形文字で忘れてはならないのは女である。地面にひざまずいて祈る姿を象ったのが女だそうだ。繰り返そう。何千・何万もあると言われる漢字の中で、象形文字はたったの600文字に過ぎないのだ。

象形文字の次は、会意文字を説明しょう。木に木が足されると「林」になり、その上に木が乗ると「森」となる。国語辞典の助けを借りよう。“意味を持つ二つ以上の文字を組み合わせ、もとの文字の意味を生かして新しい文字を作る方法”とある。日と月で「明」、これこそが会意文字の典型だろう。典型というと、田んぼに力で「男」。地面にひざまずいて祈る「女」に比べて、何と即物的であることか。
家という漢字がある。家系、家計、家事、家族、家庭、家内、画家、作家、農家、芸術家、政治家、評論家などと、前に来ても後ろに付いても使い道の良い漢字である。
漢語辞典を見ると、字解として次のような説明が成されてある。“会意。宀+豕(ぶた)”。ここで「豕」という見慣れない漢字の登場だ。訓読みは「いのこ」である。この字解は、“四足獣を横から見たさまで、いのしし、ぶたを表す”とある。月(肉だれ)を付けると、まさに豚である。
すると、家という漢字が生まれた数千年前の中国では、屋根の下に豚と一緒に暮らしていたのかと詮索したくなる。だが、さにあらず。家の字解は、“神に捧げるいけにえをおく聖なる建物の意”と続く。
屋根の下に豚で家だが、屋根の下に牛だと「牢」である。ただ、これは屋根の下に牛ではなく“牛を囲いに入れた形に象り、おりに入れたいけにえ、牛を囲むおりの意”という象形文字なのだそうだ。
家と同じく、ウ冠の会意文字で馴染みなのは「安」であろう。これは“女性が家の中でやすらぐ意から転じて、やすらかの意”なのだが、人前で話すときには、決まって象形文字「女」の字解を持って説明するようにしている。「屋根の下で女の人がひざまずいて祈るから安らかなのです」と告げると、聞き入る人たちの顔に安堵の表情が浮かぶのである。面白いことに、このような設定では大抵女性が多数を占める。男は元々出不精なのだろう。
その拍子に、「では、質問です。屋根の下に男だと」と問うのである。するとみなさんの表情が早変わりする。思いにふける表情になるのだが、これは手の打ちようがないのだ。トンチだからである。そこで、「家の中で一日中ゴロゴロする男のことを、この頃の日本では粗大ゴミと呼ぶそうです」と告げるのだ。すると決まって、場内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。これは、女性の聞き手が多いことを見越した上での算段である。

会意文字を続けよう。「昌」は日と日、「炎」は火と火、「轟」は車が三つの会意文字である。そして、姦というのもある。
このことを話題にすると、決まって「女三人集まれば、(かしま)しい」という反応が戻って来る。そのように答えるのは大抵が女性である。男は押し黙ったままというのが通常だ。そこで、小生が男として代弁するのである。「私は強姦の姦しか知りませんが」と。
漢語辞典を開いて「姦」を見ると面白い。“会意。女+女+女。多くの女を集め情事にふける意”としか記されてない。そして最後に、日本だけで用いられる意味として“かしましい”が記されてあるだけなのだ。
漢字の本家本元である中国、そして古来漢字を使い続けた朝鮮半島では“かしましい”という意味合いを持つことはなかった。このような例は少なくない。日本だけで通じる意味合いということである。
安らかの意の「安」もその好例だ。日本では安を「安い」という意味合いに使うが、中国でも朝鮮半島でも“安らか”以外の意味を持たない。長い歳月を経て、安という漢字に「安い」という意味が備わったのだろう。なお、日本以外の漢字圏の国における安いは「廉」である。日本式の「安価」はなく、廉価がそれを意味するのは言うまでもない。

ではここで、飛びっきり面白い漢字を紹介して会意文字を終りにしよう。嫐と嬲。これは決してトンチではありません。二人の女が男を挟むと「たわむれる」の意味になるそうだ。男は昔から、女に挟まれて手玉に取られる存在だったのだろうか。いや、これはただの戯れ言でした。聞き流してください。
一方、男二人が女を挟むと「(なぶ)る」のだそうだ。私は長年、とある日系引退者ホームにてボランティアのレクチャーを続けた。そこで「嬲る」を紹介したところ、「数千年前も、男はそうだったのですよ」という返答があった。集まったお年寄りのみなさんは大いに羽目を外した。言うまでもない。聴講者の全てが女性だったのだ。
ただし漢語辞典には、「嫐」にも“戯れる、もてあそぶ、なぶる”という意味合いが記されてある。男も女も似たようなものなのだろうか。
一つ付け加えよう。嫐の訓読みは「うわなり」である。歌舞伎の十八番の一つが「(うわなり)」であるのをご存じの方も多いだろう。