Sunday, April 30, 2017

Necessary。



 以前、「毛沢東語録以前の漢字」と題した項の終わりに次のように書き記した。
“いにしえの日本人が発明した訓読みは、漢籍の中で長い冬眠生活を続けていた漢字を目覚めさせる春の陽光の役割を果たしたのではないだろうか。
 新しい息吹きを与えられた漢字は日本の言語生活に入り込み、生き生きとした日本語を生み出すという貢献をした。もちろん、それぞれの漢字の持つ語源を忠実に遵守したことは言うまでもない。
このように日本で品種改良され精錬された漢字が、江戸末期から明治にかけて入ってきた横文字の西洋文明を受け入れる上で、目覚しい活躍をしたということを書こうとしている。”
このことを続けよう。
necessary」という単語が入ってきた。英英辞典をみると、Something that is necessary is what you need to have or need to doと説明がなされてある。英語を解する日本人など江戸期にはいなかった。英和辞典は存在しなかった。江戸の日本人はnecessaryを英蘭辞典で引いた。オランダ語で成されてある説明をひもとき、それを和訳していった。“必ずなければならない、しなければならないという意味のようだ。「必ず要る」ではないか。では、「必要」としてはどうか”などと考えたであろう。
このようにして、necessaryの訳語としての「必要」が生まれたのである。そして、中国でも朝鮮半島でも共有され今に至っている。
このことを書きながら思うのである。「必要」としてはどうか”と考えたことが東アジアの漢字圏の国々を救ったのだと。「必ず要る」で止まったなら、中国でも朝鮮半島でも、necessaryという英単語を受け入れることはできなかったと思うのである。()の国々には訓読みはない。

looking forward to」は、To be excited and pleased about something that is going to happenという意味である。英蘭辞典を引いて、「先に起こる何か良いことを待ち望む」と日本語に訳した。“待ち望むだから「待望」ではどうだろう”などと考えたであろう。
unsurpassed」は、A skill, quality, attitude is one that unsurpassed is better than all the othersである。“All the others(群れ)よりも抜きん出ているではないか。「群を抜く」であるから、「抜群」とすべきだ”となったのではなかろうか。
propel」は、To move, drive, or push something forwardである。英蘭辞典の説明にもとづいて“何かを前に推し動かすという意味のようだ。つまり、何かを前に‘推し進める’ということになる。では「推進」というのはどうだろう”となり、推進という漢字語が生まれたであろう。
goal」は、Something that you hope to achieve in the futureである。“何かを得ようとして目ざすもののようだ。futureは先のことだから、弓を放って先の的を目ざす感じではないだろうか。‘的を目ざす’だったら、「目的」とするのはどうだろう”となったかも知れない。これらは全くの想像である。

 いにしえの日本に漢文がやってきた。次のような形をして。
  善事父母為孝
  人無遠慮 必有近憂
  知彼知己 百戦不対殆
 日本人は仮名を発明し、訓読みを編み出して、日本式に読むことを考え出した。
  父母に(つか)ふるは善く、孝と為す
  人遠き(おもんばかり)無ければ、近き憂い必ず有り
  彼を知り、己を知り、百戦(あや)からずあがる

 上がったり下がったりしながら漢文を分解して読む日本式の読解法である。
今度は西洋語を分解し、その意味を吟味して漢字語を造り上げるという離れ業をやってのけた。長いあいだ、漢文を日本語に訳して読みつづけてきた民族である。その逆の、訳したものを漢文調に戻すのは得意とすることだったにちがいない。
繰り返そう。幕末以降の洋学者が西洋語を分解し、その意味を吟味し、漢文調に戻したことが、東アジアの国々に幸いした。
必要、待望、抜群、推進、目的、全てが音読みを持って造語された。そして、漢字二字を持って安定するという中国語の特性に順じて造語された。自由、評判、存在、現象、概念、部門、結果、理論、偶然、精神、情報、現金、背景、関係、判で押したように二字である。漢字圏の国々は、この恵みを授かった。







Friday, April 14, 2017

翻訳の困難さ。



 新しい日本語を造語する上でのリーダー役を果たした西周は、津和野盆地が生んだ。津和野は中国山地の西のほうである。中国山地の東のほうには津山盆地がある。現在の岡山県津山市である。津山盆地には作州津山藩があった。津山も津和野同様、学問を重んじる藩であった。
 ここに箕作(みつくり)家という代々洋学をもって幕府につかえる家系があった。そのひとり箕作麟祥(りんしょう)は、文久元年、蕃所調所教授手傳として幕府につかえた。明治維新の前年1867年に幕府から派遣されて渡仏し、翌年帰朝後、新政府から一等訳官に任ぜられた。屋敷は勤務先の近くの神田神保町に構えた。

“新政府は、当初、どんな国家をつくっていいか、わからなかった。戯画的にいえば、私はどこへ行ったらいいのでしょう、と辻できいているようなものであった。
「法にむかいたまえ」
 という人がいた。
「法とは、すなわち国です。国をつくるというのは、法をつくることです」”
(『街道をゆく 36 神田界隈』)

法のない状態で国家ができた明治政府としては、法律の作成が先決問題であった。当時の司法卿江藤新平は箕作麟祥に白羽の矢を立て、“仏国五法(民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法)”の翻訳を命じた。
フランス留学をしたとはいえ、わずか一年間の渡仏である。フランス語の翻訳、それも法律の翻訳など無理な注文だったろう。ただ、代々蘭学をもって幕府につかえた家系だけにオランダ語は得意で、「仏蘭辞典」をたよりに翻訳に没頭したようだ。

“翻訳の困難さは、法律用語一つずつに、それに見あう日本語や、似合った概念が日本にすくなかったことにもよるだろう。箕作は、日本語からして創り出してゆかざるをえなかったのである。”(『街道をゆく 36 神田界隈』)

箕作は五年の歳月をかけてフランスの諸法典を全訳し、1874年『仏蘭西法律書』を世に出した。日本国初の近代法典である。その後の日本の近代的法制度の整備に多大な影響を与え、日本における法律学の基礎を築いたのは言うまでもない。その功績により、箕作麟祥は「法律の元祖」と評される。権利、義務、動産、不動産なども彼の創作である。
 同じく、蕃所調所に津田真道(まみち)という洋学者がいた。この人も津山藩の出身である。文久二年、幕命により西周、榎本武揚らとライデン大学に留学し法律学を学んだ。民法・治罪法などの西洋法律書を訳す作業に従事し、『統計学』という統計学の翻訳書を著した。
 また加藤弘之という洋学者も蕃所調所において翻訳作業に従事し、『西洋各国立憲政体起立史』という翻訳書などを著し、日本の法体系の確立の上で大きな貢献をした。明治23年には、東京帝国大学総長に任命された。
 蘭語に秀でた多くの洋学者が、日本全国から蕃所調所に集まった。そして、新しい日本語の造語に没頭した。しかし、このことは一朝一夕に成されるようなものではなかった。現在我々が使う熟語になるまでには相当な紆余曲折を経ている。

“たとえば、憲法ということばでさえ、明治十年代のおわりごろまで不安定だったのである。
 慶応二年版の福沢諭吉の『西洋事情』では「律例」といい、慶応四年の加藤弘之の『立憲政体略』では「国憲」と訳されており、同年の津田真道の『泰西国法論』では「根本律法」になっている。(中略)また、インターナショナル・ローのことを国際法と訳したのも、明治六年、箕作麟祥だったという。幕末では「万国公法」といい、明治二年出版の訳書(福地源一郎・訳)には、「外国交際公法」とあるそうである。”(『街道をゆく 36 神田界隈』)

紆余曲折の模様を身近なところでいくつか紹介してみよう。
Encyclopediaは言うまでもなく百科事典であるが、その変遷を追うと面白い。明治1年に「諸学問」、同4年に「万学字典」、同6年に「節用集・学術字林」、そして同18年には「百科全書・学術辞書」と訳された。明治20年になると、今度は「博学・合類節要・学術類典・百科字類」などへと変遷した。同21年には「三才図会」へと、同41年には「叢書」へと変わった。そして、大正3年になって「百科辞書」となり同7年に「百科事彙」「全書」へと変わり、昭和6年になってやっと「百科事典」で落ち着いた。
Egoist(エゴイスト)は「利己主義者・自己中心主義者」と訳されるが、その移り変わりを辿ってみよう。文久2年の「利得を得たがる人」が初めての翻訳で、明治4年に「我欲人」、同6年に「慈愛者・自惚れ人・私欲人」となり、同36年に「利己主義者」という翻訳が成される。大正15年には「自己中心主義」となりそれで固まるが、その後も色々な訳語が現れ、昭和6年には「独り天狗」とか「我利我利亡者」などと訳されもした。
ところで、egoistを文久2年の「利得を得たがる人」、明治6年の「自惚れ人」などと用いていたなら、他の漢字圏の人たちには使用不可能だったと考える。利己主義者や自己中心主義で初めて音読みが可能なのだ。他の漢字圏の国々には、訓読みはない。

比較的新しい外来語に「OK」がある。日本に初めて上陸したのは大正7年で、「宜しい・間違いなし」と訳された。昭和2年に「相違なし」、同5年に「完了・件の如し」、同6年に「検査済み」、同7年に「おっと承知の助・合点だ」への変わっていった。そして昭和9年には「承認・承諾・承知」と変わったが、結局どれもしっくりこなかったのか、オーケーで落ち着いたようだ。
 現在地球上で最も親しまれ、どこへ行っても通じる言葉が「OK」である。このOKの誕生の秘密を紹介して終わりにしょう。誕生した日にちは1839323日である。ボストンのMorning Post紙の編集長C.G.Greenが、上がってきた原稿に、間違いなしを意味する「All Correct」をわざと同じ発音の「Oll Korrect」と書いたのが始まりらしい。いたずらで書いたOll Korrectの頭文字を取って出来たのが「OK」なのだ。それが世界中で愛用される言葉になったのだから不思議である。参考まで。