Wednesday, May 31, 2017

Bar.



 金田一春彦著『日本語』からの孫引きになるが、岩淵悦太郎の『現代日本語』にたとえば、フランス語は1,000語をおぼえると、日常の会話は83.5%が理解できるという。ところが、日本語の方は1,000語をおぼえても、日常会話は60%しか理解できない。そこに出ている統計で見ると、日本語は英語やスペイン語に比べても、たくさんの言葉をおぼえなければならない国語だということになる。フランス語は、5,000語の単語をおぼえると、96%理解でき、あと4%だけ辞典を引けばよい。英語・スペイン語も大体同じようなものであるが、日本語は96%理解するためには、22,000語の単語をおぼえなければならない”という数字が出ている。
5千語に対して2万2千語とはものすごい。同じ96%の日常会話を理解するには、日本語はフランス語の4.4倍の量の単語を知らなければいけないということになる。このことの一番大きな原因は、西洋語を翻訳する過程において生じたのではないかと考えている。
英単語の内で最も簡単なものにbarがある。日本と同じようにアメリカでもbarといえば酒を飲むバーであり、バーカウンターである。韓国でも中国でもバーは酒場である。なお、中国ではバーを「巴」と表す。
 ただ、日本で馴染みのスタンドバーは和製洋語のようだ。アメリカにはスタンドバーなるものはない。
 chocolate barで板チョコ、 iron bar になると体操の鉄棒になる。bar of goldとなると金の延べ棒である。また光・色などの帯という意味もあり、港口・河口の砂州、音楽での小節という意味あいにも使われる。楽譜を区切る縦線がbarなのである。
 酒を飲むバーの意味だけではなく、細長い固形のもの、あるいは棒状のものを広い範囲で表す単語がbarなのだ。何かを遮断するという意味合いから、禁止とか妨害といった意味にも使われる。
 アメリカにはbar exam(ination) という資格試験がある。といっても、バーテンダーの試験ではない。日本でもロースクールシステムを導入しているようだが、bar examとはロースクールを終えたものが弁護士の資格を取得するために受けるexaminationのことで、州ごとに執り行われる。司法試験あるいは弁護士資格取得試験といった堅苦しい名称にくらべ、bar examとばかに単純な呼び方で表すのも英語の面白さかもしれない。
The bar となると、‘法曹界と厳粛な意味を持つ単語になる。「behind bars」とくると、入獄しているという意味になる。監獄のbar(鉄柵)のうしろとは獄の中を意味するからである。このように極めて単純なbarという単語だが、その使われ方によって酒場のbarから法曹界のbarと、まったく広範囲な意味あいを持っている。
 幕末・明治の先人達は、西洋語を日本語に翻訳する際、その単語が持つそれぞれの異なった意味あいにふさわしい日本語を一語一語丹念に造語した。そのため、日本語の語彙の数が他の西洋語に比べ数倍に膨れ上がったのだと考える。barというきわめて単純な単語でさえ、上にあげた例のごとく、いくつもの新しい語彙が生まれたわけであるから説明の必要もない。

 このような例をもう少し挙げてみよう。fineという単語がある。fineといえばまず、‘How are you?’とごきげんを聞かれて、‘I am fine thank you.’と答える慣用句である。とはいえ現在のような忙しい世の中では、‘I am fine thank you.’などと悠長に答える人は稀になり、FineGood、あるいはOKなどと無愛想に受け答えするほうが一般的になった感がある。
 fine wineとあると上等な優れたという意味になり、fine goldは純粋で混じり気のないという意味が付加される。fine penは細書きのペンであり、fine printは細字印刷となる。なお、fine printとは広告などに極細の印刷をほどこし注意事項を掲載している部分のことで、‘fine printにご用心’といった慣用句に使われる。
 そして名詞形のfineになると、罰金という意味に変身する。いつか「Singapore is FINE city」とプリントされてあるT-shirtsを目にしたことがある。これは‘シンガポールは良い街ですよ’と‘シンガポールは罰金のきびしい街ですよ’を掛けたシャレである。これを目にした時に座ぶとん五枚ぐらいだと思ったことを思い出す。
 seasonが四季であることは言うまでもない。しかしseasonには、調味する、緩和するという動詞形も含まれる。seasoningとくれば調味料であり、seasonedで味付けしたという意味になる。またseasonedは、熟練のという意味にも使われる。求人広告にseasonedとあれば、経験を有するという意味である。

このようにして懇切丁寧に日本語を造り上げた幕末から明治にかけての学者たちのことを調べ考えていると、日本人の持つ職人気質を抜きにしては語ることが出来ないように思えてくる。
『街道をゆく 7 砂鉄のみち』に“日本には一道具一目的という伝統がある。すべての職人という名のつく職種の人たちに共通することである”というくだりがあった。
 和食の板前を例にすると、彼らは刺し身包丁、出刃包丁、薄刃包丁(野菜をむく、きざむ、へぐ、そぐ、割るなどに使われる)を携えている。
やわらかい素材の組織をつぶさず美しく切るために、刃が狭く、薄く、鋭く作られているのが刺身包丁である。
 河豚のような身のかたい魚をうす造りにするには、ふぐ引という包丁があるという。(はも)やアイナメのような小骨の多い魚を調理するには、はも切り包丁、アジのような小魚をおろすときにはアジきり、うなぎ用はうなぎ包丁を使いわけるということだ。なお、うなぎ包丁には大阪型、京型、名古屋型と異なるというのだからすごい。
出刃包丁も用途により、素材により何種類もあるという。野菜用としては、けんむき、面取り包丁、いもきりといった用途別の包丁を用意しているそうだ。
このように書き記すと、一道具一目的という日本の伝統を垣間見る思いである。

中国語ではチェーンストアのことを連鎖商店、シードチームのことを種子隊、そしてショッピングセンターのことを商業中心と呼ぶ。chainseedcenterという英語を、それぞれ連鎖、種子、中心と直訳することによって造語を試みたのであろう。
 チェーンを直訳すれば連鎖に違いないが、チェーンストアーとなると同じ系列のという意味である。
 シードチームというものは、トーナメント方式の競技会において、第一の強豪と予想されるチームあるいは個人に第一シードが与えられ、最も弱小とみなされるチームあるいは個人と対決させるという特権を意味する単語である。種子とは意味をまったく異にする。
 当然、第二シードは二番目に弱いものと対決するというのがトーナメント方式である。例外は春夏の甲子園大会である。これは抽選で決まるものであった。
 top seedを日本では第一シードというはずだが、中国では第一種子ということになり意味が全く通じない。seedは種子にはちがいないが、この場合は、人為的に対戦相手を操作するというところから、種をあらかじめまいておくということでseedとしたのである。よって、シード・チームのseedを種子と直訳したのでは正しいとは言いにくい。
 中国人街を訪れてみると、いたるところに奇妙な看板が目に止まると以前書いたが、商業中心もその一つだった。他にも医療中心、汽車中心、貿易中心などがある。はじめの内は商業専門あるいは医療専門を意味するものと思ったが、そうであれば中心ではなく専門とすればいいはずだ。
 中国語は、我々がショッピングセンター、メディカルセンター、中古車センター、貿易センターなどと用いるセンターを「中心」と表すわけである。
 centerを直訳すると「中心」に他ならない。だが、ショッピングセンターやメディカルセンターとなると、なにか規模の大きな、集約された、または専門的にあつかう場所という意味である。  
         
表音文字を持たないのでなるべく漢語に訳そうとするのであろうが、日本での造語事情に比べて、深く吟味することを行なわず、比較的安易に訳されているように思えて仕方がない。
上に“一道具一目的という日本の伝統を垣間見る思いである”と書いた。それに引き換え中国では、切る、開く、さばく、きざむ、割く、皮をむく、飾り切りなどの全てを中華包丁一本でこなすのだった。そのような文化の下での翻訳事情なのだろう。中国の翻訳事情を追っていると、多くの用途を一手にまかなう中華包丁が思い浮かぶから不思議である。
もしこの世に日本がなかったなら、bar examを巴試験と訳したであろうことは疑いようもない。いや待てよ。日本がなかったなら、試験という和製漢語は生まれることはなかったことを忘れてはならない。

Sunday, May 14, 2017

リンクという効用。



 前回は“全くの想像”と前置きして、和製漢語誕生の過程を追った。以下も引き続き想像で書く。
「明」という漢字は、見てのごとく日と月とを足した会意文字である。これほど単純明快な文字もない。日本に入ってきた「明」は、日本語のあかるいという()みが充てられた。もちろん、光が十分差していて物がよく見えるという漢字本来の持つ意味と同じである。
 ところが、茶目っ気が多く好奇心に富む日本人は、「明」という漢字を明るいの意味にとどめることをしなかった。明るい顔、明るい心、明るい見通し、事情に明るいというふうにも使うようになった。そしてそれぞれに、表情が明るい、明朗である、希望が持てる、物事に精通しているという意味合いが与えられた。
 また、“火を見るよりも明らかだ”“勝負は明らかだ”というふうにも使われ、隠されているものや、はっきりしないものを明らかにするという意味合いも加味されるようになった。それがこうじて、種を明かす、道理を明かす、秘密を打ち明ける、目明かし稼業というように意味合いがどんどん広がっていっただろう。 
 このようして、日本にやってきた「明」は日本語の言語生活の中で多くの意味合いを肉づけされた。このことが、横文字の襲来に対処する大きな要因になったということを考えてみたい。 
  
brightという単語が入ってきた時、英蘭辞典を引き“明るくて朗らかな”という和訳をほどこした。そこから「明朗」という和製漢語が生まれたのだろう。
 日本語には古くから「面白い」という言葉がある。「面が白い」と書いて何故に「おもしろい」の意味になるのかが不思議だった。以前読んだ本に『ことばの道草』というのがある。その中に、「面白い」の語源を次のように説明してあった。“「白い」は明るい、晴れ晴れする意。「面白い」は目の前がぱっと開けて、明るくなる感じをあらわした語”と。
 明るく晴れ晴れする意の「白」と、明らかではっきりしたを意味する「明」とを組み合わせて、cleardistinctexplicitなどの単語を「明白」と訳したのだろう。まことに当を得た造語だと感心する。
 明白と訳され “はっきりとしていて疑いのない”の意味合いを与えられた「明」は、precisely(明確な)、specify(明記する)、declare(明言する)などへと派生して行った。これらはみな、明らかな、はっきりとしたを意味する単語である。解明、簡明、究明、糾明、言明、公明、自明、鮮明、判明、表明なども、明らかな、はっきりしたを意味する。
また“物事に明るい”というように、さとい・かしこいという意味合いを与えられた「明」は、intelligenceを翻訳する上でも大事な役割を果たした。intelligenceの訳語として「聡明」が造語されたのである。そして聡明の意味を授かった「明」を基底にして、英明、賢明、明達、明知、明哲、明敏といった漢字語が生まれた。

これらの和製漢語は、漢字圏の国において全て共有されるのである。と断言したいのだが、中国語に関してはそのことを控えよう。中国語には漢字の宗主国としてのメンツがあるのか、時々、和製漢語に頼らず自前の漢字語を造って対処するという方法を取るからである。
中国では会社と言わず公司、自動車を汽車、株式を股票という。だが、西洋語の訳語の多くを和製漢語に頼っていると言うことは紛れもない事実である。

少し横道に入ろう。株式を中国語では股票という。股はどう見ても人体の股である。漢字では月偏(肉部)が付くと人体の部位を表すのだった。20数年前から、中国人街の新築ビルディング群に股票の看板を見かける機会が多くなった。株のことを股というわけだ。不思議である。
そして株主は股東、株主総会は股東大会なのだ。中国語では、東は持ち主を表すようである。大家さんは部屋を持つ人で房東となり、船主は船東となる。やはり日の出る東が良き物の象徴のなのだろう。相撲で東横綱が西横綱よりも格が上というのも、そこから来ているのだろうか。
では、韓国語事情を少しお知らせしょう。韓国では株式のことを주식(chu-sik)という。株式という日本語は訓読みと音読みを混ぜたいわゆる湯桶読みで、純粋な日本語である。これを韓国語として受け入れる場合、株は音読みのシュとするしか方法がない。韓国語には音読みしか存在しないのでしたね。株式を音読みで読むと、「かぶしき」ではなくシュシキとなる。株主、場所なども同様である。「かぶぬし」ではなくシュシュ、「ばしょ」ではなくジョウショとなる。このように純粋な日本語(和語)を音読みに変えて取り入れた例は掃いて捨てるほどある。このことは、韓国語の実情を書く際にあらためてお知らせしょう。

韓国語というのは不思議な言語である。1970年代に漢字を放棄したため韓国語の文章はほとんど全てが表音文字のハングルだが、その70%は漢字語だという。これは想像ではなく、韓国の政府及びメディアによって放たれる数字なのだ。
そして、現代という世の中で使われる漢字語の90%は和製漢語が占めるというのが、私の考えである。70%x90%ということは63%ということである。つまり現代の韓国語の語彙の60%以上を日本語が占めると言える。新聞や専門書に使われる漢字語のほとんどが和製漢語なのだ。だが、韓国語での漢字語は漢字で現れることをほとんどしない。

 「実」という漢字は略字体で、もともとは實である。辞書には、家の中に財宝が満ちる意とある。み、みちる、みのるの意味から花実、果実、結実、充実、豊実といった熟語ができていった。
 そして「実」は、“名を捨てて実を取る”というように、装飾的・名目的・表面的なものを取り除いた中身、つまり偽りのない、まことの、本当の、ありのままのという意味を含むようになっていった。
practicalという単語がある。哲学を語る上で必要不可欠な単語である。Concerned with real situations and events rather than ideasという意味である。これは、「実際の」 「実践の」などと訳された。idealにある空想的な、観念的な、思いつきという意味合いに対して、実用的な、事実上の、ありのままのを表す言葉である。   
actualという単語も「実際に」「実のところ」と訳された。practicalあるいはactualという意味合いを付加された「実」は、practicalactualの意味合いを含んだ英単語を造語する上で大きな貢献をした ―― 事実、写実、確実、現実、史実、切実、如実、虚実、実験、実働、実歴、実況、実益、実情、実施、実態、実現、実力などである。
 
それにしても漢字とは便利なものだ。以前、“漢字はコンピューターのデータベースに通じる効能を有するというのが、私の考えである”と書いた。そして、“データベースの情報が友人リスト、趣味の集い、顧客名簿といった項目に仕分けられるように、何万字もあるといわれる漢字という文字も、一字一字が色々な項目によって仕分けられる。まず、部首によって大まかな意味会いを示してくれる”と付け加えた。
本、杏、柿、根は、木と関連する。泉、汁、汗、池、泣は、水に関連する文字である。育、肩、胃、肌、腰、臓は、人体と関係する。負、貢、財、販は、金銭にかかわる文字だった。
そして、漢字語にも同じような特徴がある。例えば、体育、体温、体格、体質、体力、死体、弱体、重体、上体、身体、肉体などだ。「体」という漢字を持って、その意味する領域にまとめて分類するという特徴である。
和製漢語は、漢字の持つ特性を大いに受け継ぐことをした。上に書いた事実、写実、確実、現実、史実、切実、如実、虚実がまさにそれである。「実際に」「実のところ」という意味合いを持った言葉へとまとめてくれるのである。
前に書き記したように、民権、民法、民度、民意、民心、民政などは、「人民・国民」という概念とdemocracyという意味合いを授かった「民」の領域へリンクしてくれるのである。
中国ではdemocracy徳謨克拉西と音訳した。もしもこの世に日本がなかったと仮定したなら、西洋語を取り入れる上で、その領域にまとめて分類するという漢字語の特性を生かすことはできなかったろう。徳はdemocracyの「de」の音を知らせてくれる漢字でしかない。和製漢語の「民主」があってこその民事、民生なのである。