すでに書き記したことだが、日本では、ペリーが来航した嘉永六年(1853)を期して幕末と称するそうだ。幕末へと時代が移るのと時を同じくして、日本では有史以来の大変動が待ち受けていた。ペリー来航以降、西洋文明の日本への流入が始まったのである。
西洋文明の視点からすると非常に異質な文化が成熟していた日本国に、経済学、歴史学、倫理学、論理学、心理学、哲学、生理学、天文学、医学といった西洋の学問が入ってきた。それまでの日本には無かったものであった。
憲法、民法、刑法、商法、税法、会社法、国際法といった西洋の法律が土足履きのままで入ってきた。これらも、それまでの日本に無かったものである。
そして、教育、政治、経済、社会、軍隊、交通における西洋の制度が大手を振って入ってきた。言うまでもない。これらも、それまでの日本には無かったものである。
幕末以降の日本人は、西洋語の形で怒涛のようになだれ込んできた西洋のあらゆるものを、社会、経済、選挙、反応、時間、意識、情報、必要、聡明、現実、世界、信用、印象、理論、素質、演奏、精神、衛生といったそれまでの日本国には存在しなかった新しい日本語を造語することによって、速やかに取り入れることを可能にした。
そして、漢字を駆使して造語が成されたため、歴代の漢字圏である中国、朝鮮半島においても新しい日本語が共有された。それまで西洋文明に手も足も出なかった中国と朝鮮半島では、和製漢語に翻訳された書物を通して、西洋文明の受け入れが可能になったということは繰り返し書き記した。
歴代の漢字圏の国々で共有される日本語をもう少し上げてみよう。
安全、意見、意味、過去、現在、未来、可能、不可能、関係、簡単、感動、期待、基本、興味、禁止、緊張、結果、決心、決定、原因、研究、現代、言論、広告、公衆、幸福、孤独、錯覚、差別、参加、参考、賛成、反対、事実、出発、準備、使用、常識。
これらの和製漢語が無かったなら、現在の我々の社会生活は成り立たない。そのことは中国も台湾も香港も、そして朝鮮半島も同じである。和製漢語が無かったなら、歴代の漢字圏の国々では西洋文明を受け入れることはできなかったろう。そして、西洋の植民地になったであろうことを予想するのは難しくない。
日本語はすごいのである。日本はすごいことをしたのである。そのことを多くの日本人に理解していただきたい。
「すごいぞ!ニッポン語」と題した拙文の始めに“日本列島と朝鮮半島の間に対馬が浮かんでいたことが、世界史の上で幸いした。日本列島とユーラシア大陸の間に朝鮮半島があったことが世界史の上で幸いした。この出来事により、後に、朝鮮半島を通って漢字が日本列島へともたらされたからである”と書き記した。
もしも対馬がなかったなら、そしてもしも朝鮮半島がなかったなら、日本列島へ漢字がもたされるのはポルトガルが種子島に漂着した1543年以降になったろう。漢字だけではない。日本の根幹となるアジア式米作文明も仏教も、もたされるのは1543年以降となり、外の世界との接点がないまま縄文の時代を続けたと考えるのが妥当である。
何十年も前の話になる。ハンガリーから移民してきたという人と会う機会があった。
「私は日本から来ました」と自己紹介すると、突然相手が、「おお、兄弟」と言って抱擁を試みた。そして、私がけげんそうな表情を浮かべているのを見てとったのだろう。彼は、「あなたのおしりに蒙古斑あるでしょう」と笑顔でささやいたのだった。
「ああ、あるよ」
「それみな。俺もおしりにあるんだよ。どうだい、兄弟だろ」
中学校の地理の時間に、日本語はウラル・アルタイ語族に属するということを習った。何千、何万キロも離れたハンガリー、フィンランドという国々と似かよった文法を有し、同じ語族に属するということを習ったが、実感として心に残るものではなかった。ハンガリー人の蒙古斑を知るまでは。
モンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を征服したことによって、蒙古斑が東欧諸国から極東に位置する日本列島までをも巻き込む広い範囲に及んだのかもしれない。あるいは、紀元前八世紀ごろ黒海北方の草原地帯において遊牧文明を興したスキタイ人が蒙古斑の祖先なのかもしれない。
遊牧文明の祖先であるスキタイ人が、遊牧に最適な地を求めて、途方もない年月をかけて万里と続く砂漠、峡谷、山岳を踏破し、モンゴル高原に辿り着いたことを思う。涸れた砂漠、砂ぼこりの吹き荒れる砂漠、熱砂の砂漠、底冷えの砂漠を一歩一歩、くる日もくる日も、はかり知れない年数をさまよったことを思う。
気の遠くなるような長い年月を費やして辿り着いたモンゴル高原は、地球上で最も遊牧に適していると言われる。そのモンゴル高原を中心にして活躍した遊牧民族が匈奴と呼ばれ、北アジアに遊牧民族最初の国を建てたという。そして秦の始皇帝が、匈奴の勢力を阻止するために築いたのが万里の長城であった。
匈奴は東へも勢力を伸ばし、現代の中国東北地方において固有の社会を作り上げていた扶余族に影響を与え、遊牧民族の持つ特有のウラル・アルタイ語を伝えた。世界史は詳しくないので良くわからないが、このようなあらすじだったと記憶する。そして扶余族の一部が朝鮮半島南西部へと移り住み、百済を興す祖となった。
また、スキタイ人特有の金細工文化がユーラシア大陸の果てに位置する新羅に受け継がれ、質の高い金冠として花開いたという。まさに、人類の歴史の壮大を見る思いである。
このようなことに思いを巡らすと、歴史上の漢民族と北方の騎馬民族との間に立ちはだかる万里の長城が線となって鮮明に浮かぶから不思議だ。スキタイの遊牧民族にしろモンゴルの騎馬民族にしろ、彼らの文化は万里の長城の外側を通って伝わった。膠着語(テニヲハ)という文法上の特徴をもつウラル・アルタイ語も、蒙古斑も同じルートを通って伝わった。
万里の長城の内側に位置する漢民族には金細工文化は興らなかった。膠着語が漢文のなかに入ることもなかった。中国人の知り合いに聞くと、中国人には蒙古斑はないと言う。たかが蒙古斑であるが、人類の歴史のスケールに圧倒される。
開高健は司馬遼太郎との対談で、“文明というのはなんであれ、他の文化圏に容易に伝達できるか、容易でなくても少なくとも伝達が可能であるものを文明という”と定義している。
有史以来、文明というものは一日も休むことなく動き続け、流れ続けているのである。偏西風が休みなく吹くように、海流が止まることなく流れるように。
同じく開高健は、文化の定義を“文化とはなにかというと、その文化圏に固有の血と土の産物であって、他の文化圏に伝えることが不可能であるか、もしくはきわめて困難であるもの”としている。
アメリカで生まれた固有の文化ジーパンが、世界の若者に愛され、世界的規模でのジーパン文明へと普遍化された。これまたアメリカ特有のfast
foodにすぎなかったハンバーガーが、マクドナルド式の経営システムによって世界的な食文明へと昇華された。
つまり文明というのは、誰でも参加できるものであり、参加すると非常に便利が良く役に立つという定義が可能である。誰でも参加でき、非常に便利で、かつ有益ということであれば、幕末以降に造語された和製漢語はまさに文明である。極東の漢字圏に限らねばならないが、和製漢語文明と名付けても差し支えないと考える。
日本へもたらされた漢字文明は長い年月を経て、日本独自の訓読み文化へと熟成された。近代の夜明けを機に、訓読み文化は和製漢語文明へと成就され、もたらされた時とは比べ物にならないほどの大きなインパクトを携えて、漢字をもたらしてくれた国々へと戻っていった。
東アジア諸国の中央集権的な視野では、異端児としか言いようのない日本という国があったればこそ、漢字圏の国々が西洋の言語的植民地と化することから免れることができたと思っている。そして、和製漢語文明なくしては漢字圏の国々の近代化はあり得なかったとも思っている。和製漢語の誕生は世界史に多大な貢献をした。
日本は、西洋文明を自国語に翻訳するという世界のどの民族も成さなかったことをやり遂げ、東アジア諸国へと伝播した。司馬遼太郎も開高健も、「言語は文化の中でも最大のものですな」と口を揃えている。
和製漢語の成立がなかったとしたら、東アジア諸国の文化の存続が可能であっただろうか、民族の存続は可能だっただろうか、国の存続は可能だっただろうかと考えている。 日本は世界史の上ですごいことをしたと、私は思う。しかし、当の日本人はすごいことをした事実すら知らない。
司馬遼太郎は陳舜臣との対談で、次のように説いた。
“同じ文字を使っているということで、日本人がつくった言葉を中国は逆輸入する。憲法、文学、哲学という言葉がそうだし、またふるくからあった人民、共和という言葉も新しい概念を持って再生される。ほとんどの言葉がそうだと思うな。だから、朝鮮民主主義人民共和国という国名も、「朝鮮」を除いては全部明治の日本人がつくった翻訳語ですね。陳さんのおっしゃることですけれども、文明は共有されてはじめて文明といえるわけで、日本もこの点ですこし中国、朝鮮にお返しできたようでもある”(『対談 中国を考える』)
すごいことをしてもすごいと思わない国、自分をひけらかすことを恥じる国、日本に生まれ育ったことを誉に思う。