Wednesday, June 14, 2017

形を変えた英語



 鈴木孝夫という言語学者の書いた『日本語と外国語』に、次のような(くだり)がある。

“英語の難しさは何も外国人である日本人にとってだけではなく、英語を母国とする人々にとっても厄介なのだ。私は米国のある著名な大学で、日本語の漢字のしくみについての講演を行なった際に、黒板にpithecanthropeと大書してその意味を聴衆に尋ねたところ、誰ひとりとして答えられなかった。これは日本語の猿人に当る語で、pithec-の部分はギリシャ語の猿に由来し、anthropeは人間を意味する。
 この集まりは文化・社会系の大学院生や教授たちが主であったこともあろうが
それでも日本で黒板に「猿人」と書いて、何十人もの一般知識人の中にひとりも理解できる人がいない状況を想像できるだろうか
 (註)辞書にはpithecanthropeはなく、pithecanthropusとある。ミススペリングかも知れないが、手元に『日本語と外国語』が見当たらないので訂正のしょうがない。ご了承ください。

pithecanthropusを辞書で引くと、類人猿と人間の中間、特にジャワ直立猿人を指すとある。アメリカでは著名大学の教授や大学院生でさえ理解しなかった単語が、日本だと、漢字を解する人であれば辞書を引く必要さえもない。小学校の高学年くらいなら「猿人」という漢字語を理解するはずだ。日本語に訳すと、というよりも日本で造語された和製漢語で表すと一目瞭然である。
つまり、アメリカ人にとっても難解だった英単語が、日本では国民すべてが理解できる言葉へと形を変えたのである。このことを指して高島俊男は、名著『漢字と日本人』の中で「形を変えた英語」と表現した。
 anthropoは、ギリシャ語のanthroposが語源で、「人、人類」を意味し、次のような専門用語に使われる。
  anthropology
  anthropogenesis
  anthropometry
 上から、人類学、人類発生論、人体測定学である。英語で表されると意味のはっきりしない専門用語然とした単語群だったのが、日本語に形を変えると、中学・高校生程度の漢字能力があれば充分理解できるのである。

猿人が登場したところで、矛先を韓国語へと向けよう。漢字を放棄したことにより、韓国語は取り返しのつかない損害を招いたということを書いてみたい。
私事である。私が韓国を初めて訪ねたのは1975年の7月だった。当時はまだ、街には漢字が溢れていた。OO銀行、OO百貨店、OO病院などである。漢字語はほとんど全てが理解できたのだった。
ソウルの街角で売られる新聞を一部手に入れた。これまたほとんど理解できたのだった。OO新聞、725日、日曜日、国会議員、大統領、開放、休暇、文化欄、交通事故など、漢字語の使われ方は日本とまったく同じだったからである。これら日韓共有の和製漢語は、韓国語の読みができなくとも、目で見ればその意味が理解できるという特徴がある。
以前、韓国語の70%は漢字語で、その90%は和製漢語だと書いた。つまり、新聞に書かれた韓国語の63%は目で見てその意味が飲み込めるのである。
当時の韓国旅行は優雅なものだった。日本の統治時代を生きた年配の方々とは日本語での会話がすらすらとできた。この方たちは、若かりし頃を懐かしむかのように、得意になって日本語を話すのだった。
統治時代を経験していない同年代の連中とは、筆談という手を使った。家族、先生、学校、運転免許、通行禁止、一車線、高速道路、写真、住所などと書き並べると通じるのだった。

ではそろそろ、漢字を放棄したことによって韓国が(こうむ)った途轍もない出来事を書き記そう。ペリー来航以降に到来したpithecanthropeという英単語を、幕末以降の洋学者は「猿人」という新しい日本語を造って対処した。
英語を母語とするアメリカ人にも理解されないほどだったpithecanthropeは猿人という「形を変えた英語」として誕生した。すると、一目瞭然なのである。漢字を解する年頃になると、猿人間だということはすぐに理解する。
その恩恵は韓国も授かった。「猿人」と漢字で現れると、韓国でも一目瞭然だったのである。ところが漢字を放棄したために、韓国の言語事情は、天と地がひっくり返るほどの大混乱を引き起こした。
漢字を放棄して以降の韓国では、全てがハングル表記となった。猿人は원인と書き表される。読みは、wonである。韓国の通貨単位が(won)でした。inである。猿人の読みはwoninなのだが、漢字を放棄して以降の韓国では、「원인」を目にして猿人を思い浮かべる者は一人もいなくなったと断言する。

10数年前の話になるが、韓国語の新聞に「원인(遠因)」と書かれた箇所があった。漢字を放棄して以降数十年が過ぎた現在でも、時々漢字が登場するのである。何故か。文章を書いた記者が遠因のつもりで원인と書いたとしても、원인を遠因と理解する読者はいないからである。国民のほとんどは、원인を目にすると、原因しか思いつかないのだ。
原因と遠因という意味の異なる言葉が同じ音で同じ形を持った「원인」と表されるのだから、その違いを把握するのは無理なのだ。
書くほうは遠因のつもりで書くのだが、読むほうは原因と受け取るのである。そのことを十分承知の記者は、この원인は原因ではなく遠因ですよと注意書きのつもりで括弧を用意して(遠因)を書き添えるのだが、漢字を捨てて数十年が経った韓国だ。「遠因」と書かれた漢字を理解する者はごく少数である。つまり、遠因という語彙は韓国語の中から消え去ったのである。
ここまで書くとお気付きの方もいらっしゃるだろう。猿人も원인だった。すでに書き記したように、원인とあるのを見て韓国人が思い浮かべるのは原因しかないのである。猿人が韓国語の語彙から消え去ったのは遠い昔のことだろう。
もう一つ付け加えよう。北京原人という時の原人である。お分かりだろう。原因の「原」はだった。原人は猿人と同じく「원인」と表されるのである。考古学からすると、猿人の後に現れるのが原人であるらしい。漢字を捨てた韓国語では猿人も原人も「원인」と表される。원인とあるのを見て、どのようにして猿人と原人を区別しろというのだろうか。

ここで少し韓国語の国語辞典に載る원인の項をお見せしょう。
 원인(原人) 원인(猿人)につぐ 30―70まんねんまえ
                の かせき じんるい。
원인(猿人) もっとも げんしてきな さいこの かせき
             じんるいの そうしょう。
원인(原因) ある じぶつや げんしょうを ひきおこし
              たり へんかさせる こんぽんになる できご
              とや じけん。         
원인(遠因) とおい원인かんせつてきな 원인
  원인(援引) じぶんの しゅちょうの こんきょとして
                 たの じじつおよび ぶんけんを いんよ
                  うすること。
  (註)各々の言葉の意味はハングルで書かれてあるので、その部分は同じ表音文字であるひらかなを用いた。
 
それにしても韓国語の辞書は不思議である。漢字を捨てたにもかかわらず、括弧の中に漢字を添えてあるのだが、ほとんどの韓国人は漢字を解さない。日本人だとその漢字を見れば一目瞭然だが、漢字を放棄した韓国人は、各々の원인の説明を逐条読まなければならないということになる。一番上の原人の원인から始めて、最後の援引の원인までひと通り読んだあと、どの원인が自分の探している원인であるかを判断しなければならない。大変な労力の消耗であり、時間の無駄である。
以前、当地の日系人引退者ホームにおいて「ソーシャルアワー」という言葉の講座を6年半続けたと書いたはずである。その場でこのことを伝えたところ、“じゃ、韓国の方たちには一目瞭然じゃなく百目漠然ですね という言葉が返ってきた。まさにその通りである。
漢字を放棄する前には五つの語彙を持つ원인だったが、現代の韓国語では、原因だけになったのである。韓国語は漢字を捨てたことにより、語彙の数が物すごい勢いで減って行った。これは勿体ない話だ。

Wednesday, May 31, 2017

Bar.



 金田一春彦著『日本語』からの孫引きになるが、岩淵悦太郎の『現代日本語』にたとえば、フランス語は1,000語をおぼえると、日常の会話は83.5%が理解できるという。ところが、日本語の方は1,000語をおぼえても、日常会話は60%しか理解できない。そこに出ている統計で見ると、日本語は英語やスペイン語に比べても、たくさんの言葉をおぼえなければならない国語だということになる。フランス語は、5,000語の単語をおぼえると、96%理解でき、あと4%だけ辞典を引けばよい。英語・スペイン語も大体同じようなものであるが、日本語は96%理解するためには、22,000語の単語をおぼえなければならない”という数字が出ている。
5千語に対して2万2千語とはものすごい。同じ96%の日常会話を理解するには、日本語はフランス語の4.4倍の量の単語を知らなければいけないということになる。このことの一番大きな原因は、西洋語を翻訳する過程において生じたのではないかと考えている。
英単語の内で最も簡単なものにbarがある。日本と同じようにアメリカでもbarといえば酒を飲むバーであり、バーカウンターである。韓国でも中国でもバーは酒場である。なお、中国ではバーを「巴」と表す。
 ただ、日本で馴染みのスタンドバーは和製洋語のようだ。アメリカにはスタンドバーなるものはない。
 chocolate barで板チョコ、 iron bar になると体操の鉄棒になる。bar of goldとなると金の延べ棒である。また光・色などの帯という意味もあり、港口・河口の砂州、音楽での小節という意味あいにも使われる。楽譜を区切る縦線がbarなのである。
 酒を飲むバーの意味だけではなく、細長い固形のもの、あるいは棒状のものを広い範囲で表す単語がbarなのだ。何かを遮断するという意味合いから、禁止とか妨害といった意味にも使われる。
 アメリカにはbar exam(ination) という資格試験がある。といっても、バーテンダーの試験ではない。日本でもロースクールシステムを導入しているようだが、bar examとはロースクールを終えたものが弁護士の資格を取得するために受けるexaminationのことで、州ごとに執り行われる。司法試験あるいは弁護士資格取得試験といった堅苦しい名称にくらべ、bar examとばかに単純な呼び方で表すのも英語の面白さかもしれない。
The bar となると、‘法曹界と厳粛な意味を持つ単語になる。「behind bars」とくると、入獄しているという意味になる。監獄のbar(鉄柵)のうしろとは獄の中を意味するからである。このように極めて単純なbarという単語だが、その使われ方によって酒場のbarから法曹界のbarと、まったく広範囲な意味あいを持っている。
 幕末・明治の先人達は、西洋語を日本語に翻訳する際、その単語が持つそれぞれの異なった意味あいにふさわしい日本語を一語一語丹念に造語した。そのため、日本語の語彙の数が他の西洋語に比べ数倍に膨れ上がったのだと考える。barというきわめて単純な単語でさえ、上にあげた例のごとく、いくつもの新しい語彙が生まれたわけであるから説明の必要もない。

 このような例をもう少し挙げてみよう。fineという単語がある。fineといえばまず、‘How are you?’とごきげんを聞かれて、‘I am fine thank you.’と答える慣用句である。とはいえ現在のような忙しい世の中では、‘I am fine thank you.’などと悠長に答える人は稀になり、FineGood、あるいはOKなどと無愛想に受け答えするほうが一般的になった感がある。
 fine wineとあると上等な優れたという意味になり、fine goldは純粋で混じり気のないという意味が付加される。fine penは細書きのペンであり、fine printは細字印刷となる。なお、fine printとは広告などに極細の印刷をほどこし注意事項を掲載している部分のことで、‘fine printにご用心’といった慣用句に使われる。
 そして名詞形のfineになると、罰金という意味に変身する。いつか「Singapore is FINE city」とプリントされてあるT-shirtsを目にしたことがある。これは‘シンガポールは良い街ですよ’と‘シンガポールは罰金のきびしい街ですよ’を掛けたシャレである。これを目にした時に座ぶとん五枚ぐらいだと思ったことを思い出す。
 seasonが四季であることは言うまでもない。しかしseasonには、調味する、緩和するという動詞形も含まれる。seasoningとくれば調味料であり、seasonedで味付けしたという意味になる。またseasonedは、熟練のという意味にも使われる。求人広告にseasonedとあれば、経験を有するという意味である。

このようにして懇切丁寧に日本語を造り上げた幕末から明治にかけての学者たちのことを調べ考えていると、日本人の持つ職人気質を抜きにしては語ることが出来ないように思えてくる。
『街道をゆく 7 砂鉄のみち』に“日本には一道具一目的という伝統がある。すべての職人という名のつく職種の人たちに共通することである”というくだりがあった。
 和食の板前を例にすると、彼らは刺し身包丁、出刃包丁、薄刃包丁(野菜をむく、きざむ、へぐ、そぐ、割るなどに使われる)を携えている。
やわらかい素材の組織をつぶさず美しく切るために、刃が狭く、薄く、鋭く作られているのが刺身包丁である。
 河豚のような身のかたい魚をうす造りにするには、ふぐ引という包丁があるという。(はも)やアイナメのような小骨の多い魚を調理するには、はも切り包丁、アジのような小魚をおろすときにはアジきり、うなぎ用はうなぎ包丁を使いわけるということだ。なお、うなぎ包丁には大阪型、京型、名古屋型と異なるというのだからすごい。
出刃包丁も用途により、素材により何種類もあるという。野菜用としては、けんむき、面取り包丁、いもきりといった用途別の包丁を用意しているそうだ。
このように書き記すと、一道具一目的という日本の伝統を垣間見る思いである。

中国語ではチェーンストアのことを連鎖商店、シードチームのことを種子隊、そしてショッピングセンターのことを商業中心と呼ぶ。chainseedcenterという英語を、それぞれ連鎖、種子、中心と直訳することによって造語を試みたのであろう。
 チェーンを直訳すれば連鎖に違いないが、チェーンストアーとなると同じ系列のという意味である。
 シードチームというものは、トーナメント方式の競技会において、第一の強豪と予想されるチームあるいは個人に第一シードが与えられ、最も弱小とみなされるチームあるいは個人と対決させるという特権を意味する単語である。種子とは意味をまったく異にする。
 当然、第二シードは二番目に弱いものと対決するというのがトーナメント方式である。例外は春夏の甲子園大会である。これは抽選で決まるものであった。
 top seedを日本では第一シードというはずだが、中国では第一種子ということになり意味が全く通じない。seedは種子にはちがいないが、この場合は、人為的に対戦相手を操作するというところから、種をあらかじめまいておくということでseedとしたのである。よって、シード・チームのseedを種子と直訳したのでは正しいとは言いにくい。
 中国人街を訪れてみると、いたるところに奇妙な看板が目に止まると以前書いたが、商業中心もその一つだった。他にも医療中心、汽車中心、貿易中心などがある。はじめの内は商業専門あるいは医療専門を意味するものと思ったが、そうであれば中心ではなく専門とすればいいはずだ。
 中国語は、我々がショッピングセンター、メディカルセンター、中古車センター、貿易センターなどと用いるセンターを「中心」と表すわけである。
 centerを直訳すると「中心」に他ならない。だが、ショッピングセンターやメディカルセンターとなると、なにか規模の大きな、集約された、または専門的にあつかう場所という意味である。  
         
表音文字を持たないのでなるべく漢語に訳そうとするのであろうが、日本での造語事情に比べて、深く吟味することを行なわず、比較的安易に訳されているように思えて仕方がない。
上に“一道具一目的という日本の伝統を垣間見る思いである”と書いた。それに引き換え中国では、切る、開く、さばく、きざむ、割く、皮をむく、飾り切りなどの全てを中華包丁一本でこなすのだった。そのような文化の下での翻訳事情なのだろう。中国の翻訳事情を追っていると、多くの用途を一手にまかなう中華包丁が思い浮かぶから不思議である。
もしこの世に日本がなかったなら、bar examを巴試験と訳したであろうことは疑いようもない。いや待てよ。日本がなかったなら、試験という和製漢語は生まれることはなかったことを忘れてはならない。