Monday, February 27, 2017

ペリー来航以降。



 1853年(嘉永六年)は言うまでもなく、ペリー提督の率いるアメリカ合衆国海軍東インド会社艦隊が浦賀に来航した年である。そして、翌1854年(寛永七年)には日米和親条約が締結され、長かった鎖国政策に終止符が打たれた。日本では、ペリー来航の嘉永六年を期して幕末と称するという。
幕末へと時代が移るのと時を同じくして、日本では有史以来の大変動が待ち受けていた。ペリー来航以降、西洋文明の日本への流入が始まったのだった。
何百年という年月を時代劇に描かれるような社会生活を営んでいた日本国、時代劇においてささやかれるような言語生活をおくっていた日本国に、西洋文明が怒涛のようになだれ込んできたのだった。
 西洋文明の視点からすると非常に異質な文化が成熟していた日本国に、経済学、歴史学、倫理学、論理学、心理学、哲学、生理学、天文学、医学といった西洋の学問が入ってきた。また、憲法、民法、刑法、商法、税法、会社法、国際法といった西洋の法律が土足履きのままで入ってきた。そして、教育、政治、経済、社会、軍隊、交通における西洋の制度が、大手を振って入ってきたのである。その全てが、それまでの日本国に存在しなかったもの、存在しなかった概念であった。
自分たちにないということは、自分たちが西洋よりもはるかに遅れていると考えただろう。自分たちの住む国が、西洋の進んだ文明によって滅ぼされるのではないかという恐怖におちいっただろう。ペリーの軍艦が浦賀に入港して礼砲を放ったとき、そのすごさにおののいた。
このままでは、米国の圧倒的な武力により日本が占領されるのは時間の問題であると思ったろう。アヘン戦争後、中国が西洋の半植民地と化したことが目の前まで迫っていることを実感しただろう。富国強兵が急務と考え、そのためには西洋文明の早急な受け入れが肝要であると考えた。

西洋文明の流入は、まずは中国が経験した。アヘン戦争(1840 ~ 1840年)が始まる前だったろう。以前「万葉仮名」の項で、“英国が清国へ攻め入った。そのことは英語の来襲を意味する。当時の中国には英語を解する者は皆無だったろう。英国からの文書を中国に訳すということは不可能だったのだ”と書き記した。
西洋文明はもちろん、横文字の形をして乱入してきた。astrologia, catagoria, interest, corporation, democracy, defferentia, existense, family, ideology, industry, intelligence, liberty, memory, narcissism, perceptionというように。
以前、“中国語には表音文字は存在しない。横文字の音に最も近い漢字を充てるということでお茶を濁したのである。サラダは「色拉」、サンドウィッチが「三明治」、ファッションが「花臣」で、ウィスキーは「威士忌」と表記されたのである。
クラリネットは「克拉里涅特」、サクソフォーンは「薩克斯風」とした。これしか手がなかったのだ”と書いた。
そこへ持ってきて、中国において使われる漢字は、毛沢東語録が登場するまでの2千年間、漢籍の中で冬眠を続けた文字であった。つまり中国語は、毛沢東の登場するまでの数千年間を、孔子の時代に使われた語彙のまま停滞した状態だったと言えるかもしれない。

 上に記した英単語は、亜斯多落日亜、加得我利亜、嬰脱列斯特、歌頗勒宩、徳謨克拉西、的甫連希亜、額思定斯、費密理、意徳沃罘基、茵达斯脱理、印貼利根追、里勃而特、孟摩利、腊西雪茲娒、波塞布知阿というように、音訳を施すことによって中国語に吸収しようと試みた。
 これでは西洋語の‘音’に漢字を充てただけにすぎない。アストロロジア、キャタゴリア、インタレスト、コーポレーション、デモクラシー、ファミリー、イデオロギー、インダストリー、インテリジェンス、ディフェレンシア、エグジステンス、リバティー、メモリー、ナルシズム、パーセプションなどと表すのと同じことである。
これでは外国語を正しく翻訳したとは言えない。ましてや、一文字一文字に独自の意味を含むという漢字の特性が災いして、支離滅裂な意味の混在する言葉が氾濫するという結果となった。西洋文明を受け入れることなどおぼつかない状態に陥ったのだった。

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