Friday, September 30, 2016

海女と対馬



ここで少々、見方を変えてみよう。ここまでは、百科事典に日本列島がプリントされてなかったことからの“IF”だったが、今度はその逆を考えてみた。この世に朝鮮半島がなかったと仮定したのである。
確実に言えることは、日本国の基礎を作った弥生時代が日本へ入ってくることはなかったであろう。朝鮮半島がなかったなら、多くの人口を養うことを可能にしたアジア式米作文明が日本へ辿り着くのは、より長い歳月を要したはずである。縄文の採集生活が悠々と続けられたであろう。
このように書くと、「縄文遺跡から米粒が見つかっている。その時代から米は作られていたんだ」とか、「朝鮮半島がなくとも、中国から直接入って来ただろう。実際、米作の進入ルートには朝鮮半島経由と揚子江の河口付近からの二つがあるではないか」という声が聞こえてきそうだ。
そのことは考古学的に見ても歴史学的に見ても明らかである。とはいえ、縄文時代の米作は、大人数を養うことを可能にしたアジア式米作文明ではなかった。また、揚子江の河口付近から届いたものが日本に初めて伝播された米作文明だとは考えにくい。ここで少々、私の考えを書き記そう。

中華は農業をもって華とし、万里の長城の外側において生活を営むモンゴル人を蔑んだ。土地に根をおろさない遊牧民族であるからという理由からだった。また中華は、漁を持って生活を営む漁民を蔑んだ。歴代の中国では、国家公務員試験にあたる科挙を受ける資格から漁民を除外した。すなわち、漁民を人として扱っていなかったのである。土地に根をおろしていないからに他ならない。
歴代中国人は、海に関しては無頓着だった。漢民族が初めて台湾に足を踏み入れたのは、ほんの三・四百年前のことらしい。目と鼻の先にある海南島でさえ、つい最近まで見向きもされなかったのである。
このように海に関しては無頓着だった中国である。朝鮮半島がこの世に存在しなかったと仮定してみよう。肉眼で見ることのできない日本列島である。存在も分からない場所へ、米作文明を仏教を漢字を伝播したとは考えられない。朝鮮半島がなかったなら、日本列島の存在が外の世界へ知れるのは、ポルトガルによる種子島への漂着まで待たねばならなかったのではあるまいか。

このように想像を膨らませて行くと、日本列島と朝鮮半島の出会いは宿命的である。司馬遼太郎は、海女の存在に注目した。海女は世界的な規模で見ても、中国の南部海岸地域、朝鮮半島南部、そして日本列島のみに分布しているらしい。海に潜って、魚介と海藻を採取するのが彼らの生業(なりわい)である。
 古代の海人族は、一所に居続けるという生活ではなく、(いかだ)を浮かばせて沿岸伝いに動きながら生活を営んでいたらしい。船ではなく筏であるから、少々の大波を喰らっても沈むことはない。行動範囲は広い地域にわたったとみえる。
想像を膨らませてみる。大昔に中国の南部海岸地域におこった海人集団は、中国の沿岸伝いに北上し、山東半島にぶつかった。次は東へと進路変更だ。山東半島の突端へと辿りつくと、今度は西向きである。沿岸伝いを続けた。遼東半島も無事に越えると朝鮮半島を南下した。そして、ある一族は半島西南部に位置する多島海の豊かな漁場に出会い、居座っただろう。
その内の一団は、南海岸の東よりに位置する巨済島を根城にした。ある青々と晴れわたった昼下がり、巨済島の南端でさざえを採っていた一人の海女が、はるか海の彼方にかげろうのようなものを見た。
 朝鮮半島と日本列島との間に対馬が浮かんでいたことが、世界史の上で幸いした。紀元前三世紀頃の話である。もし島影が見えなかったなら、いくら沈まない筏であっても、水平線に向って風濤荒れ狂う玄界灘へと漕ぎ出すはずがない。
 
 移動をしながら生活を営む種族である。豊かな漁場を探して移動をするのが彼らの習性だ。万が一のために数人の集団を組み、対馬へと筏を漕ぎ出したであろう。遭難し無人島へ漂着という非常の事態に備えて、籾のままの米も食糧庫の中へ詰め込んだ。
 玄界灘の荒れ狂う波濤を乗り越えた海人集団は、悪戦苦闘の末、対馬に無事到着した。対馬の沿岸をくまなく潜り、定着するにふさわしい場所を物色したであろう。そのことを繰りかえしながら、彼らは対馬の最南端へとたどり着いた。そこからは、壱岐の島が彼らの目に映った。
対馬から壱岐は見えるのである。「防人(さきもり)」という古い日本語がある。‘白村江(はくすきのえ)の戦い’において新羅と唐との連合軍に大敗を喫した大和朝廷は、朝鮮半島を統一した新羅が日本に攻め入って来るのを恐れた。そして敗戦の翌年、敵の水軍が来襲した場合に備え、対馬と壱岐にのろし台を設け防人を置いた。いち早く大宰府へと急報できるようにするための策である。昼は煙で、夜は炎でのろしを上げたのだ。壱岐からは、対馬で焚かれた松明(たいまつ)が見えたのである。
 壱岐を目指さないわけには行かない。彼らの習性である。壱岐に無事到着した一団は海岸線沿いに島を探索し、島の南の端に辿りつく。そして彼らの目の前に現れたのは、遠景に横たわる巨大な陸地であった。一同、歓声を上げただろう。壱岐の探索もほどほどに、筏を陸塊へと向けたのだった。
 彼らが辿りついたのは、壱岐から一番近い現在の東松浦半島あたりにちがいない。イカで有名な呼子港あたりだったかもしれない。幸いにも、辿りついたところは平野が開けていただろう。彼らは、非常時のために積み込んだ籾を手付かずの平地に蒔いてみた。すると、あっという間に芽が出た。そして数ヶ月後には、収穫できるほどに稲が実っただろう。
 彼らにとっての新大陸発見であった。コロンブスの新大陸発見とは比べ物にもならないだろうが、このことにより、日本列島は九千年にも及んだ縄文時代に幕を閉じることになった。
繰り返そう。日本列島と朝鮮半島の間に対馬が浮かんでいたことが、世界史の上で幸いした。日本列島とユーラシア大陸の間に朝鮮半島があったことが世界史の上で幸いした。この出来事により、後に、朝鮮半島を通って漢字が日本列島へともたらされたからである。

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