Monday, January 2, 2017

からだ言葉



この辺で少々趣向を変えてみよう。日本語の表現力の豊かさということである。その一役を担うのが日本語のからだ言葉であるに違いない。
例えば「手」の付く言葉である。手伝い、手続き、手順、手取り、手作り、手軽、手柄、色んなのがある。手数料があれば手付金もある。そうそう、手切れ金というのもありました。‘手を出す’のは男と相場は決まっている。 ‘手が早い’のも同じだろう。‘手癖が悪い’のも男の特権だろうか。
‘頭を丸める’は坊主になることを意味する。‘頭を撥ねる’は上前を取るという時に使う。頭の付くからだ言葉には、頭をひねる、頭を冷やす、頭打ちなどがあるが、‘頭から’という言い方もある。
‘頭からしかりつける’は「理由も聞かないでいきなり事を行うさま」であり、‘頭から信用しない’は「てんで。まるで」という意味になる。
高島俊男の『お言葉ですが…』に、“同じ物や事を指すのにいくつもの言葉があるのは、その文化が豊かだから”という一説がある。からだ言葉は、まさにその典型であろう。

‘頭のてっぺんから足のつま先まで’という。次は足で行ってみよう。足を洗う、足に地がつかない、足が付く、足が出る、足が乱れる、足を引っ張る。
足というと思い出す話がある。以前「からだ言葉」と題したコラムを書いたところ、読者の一人からありがたいお便りが届いたのだった。娘さんが幼かった頃の話だという。カナダへの留学を終えた甥をしばらく預かることになったのだそうだ。
ロスという大都会は、公共の交通手段が整っていない地として有名である。車がなくては身動きが取れない場所なのだ。甥の到着を前にして、「A君は足がないから困ったわね」という何気ない会話を家族の間で交わしたのだそうだ。
数日して空港へ出迎えに行ったのだが、娘さんの様子がひどく緊張しているように見えたという。
お便りは次のように続く。「あとで分ったことですが、彼女は“足がない従兄(いとこ)がやって来る。どんな風にしてくるんだ? どうやって遊べば良いのか?”と真剣に悩んでいたそうです」と。このお便りを読み終えてからしばし唸った。
この娘さんは、アメリカ生まれの日系二世である。学校で学び友達と遊ぶのは英語、家に帰ると日本語という言語世界で生まれ育ったのだ。多くの日系二世がそうするように、この娘さんも週一の日本語学校へ通っただろう。だが、週一でお茶を濁せるほど言語の習得というものは甘くはない。ましてや、からだ言葉までは無理なのだろう。
目から火が出る’‘尻に火がつく’‘目ん玉が飛び出る’‘喉から手が出ると来ると、足がないと聞いて恐れを成したのも(うなず)ける。
骨を折ったり腰を抜かしたり、首が飛んだり首がつながったり、考えてみるとぞっとするような言い回しばかりだ。まだまだある。足を棒にする人もいれば、腹の虫の居所の悪い人、口から先に生まれてくる人もいる。そうそう。心臓に毛が生えている人もいました。日系二世にとっては、からだ言葉は目もくらむことなのだろう。

からだ言葉を続けよう。うーんと下げて「屁」である。屁理屈、屁の河童、へっぴり腰と続くと、勢いがあって申し分ない。ところで「へっぴり腰」である。へっぴり腰と打って漢字変換すると、なんと「屁っ放り腰」と出てきたのだ。これにはビックリした。その姿が目に浮かぶようだ。及び腰に比べると、表情も断然豊かである。
ここで「屁」の字解を紹介しょう。「比」を音符とする形声文字である。すると、尸が意符ということになる。これは何を意味するのだろうか。これは「しかばね」と分類される。屍という時の「(しかばね)だれ」なのだ。漢語辞典には“人の腰とひざを折った形で、人体、単独には生命を失った肉体を表す”とある。
そして、ユニークなことがあるので付け加えよう。尸だれは腰回りの漢字に多く使われるのである。水が付いて尿、毛が来て尾、九で尻と来ればご理解いただけるであろう。
屁の出所はもちろん腰回りだ。屁の音読みは放屁という時の「ヒ」である。訓読みが()であることは言うまでもない。

次は、屁っ放り腰の「腰」を分解してみよう。音読みは腰痛という時の「ヨウ」である。「要」を音符とする肉月の形声文字ですね。
ここで肉月の形声文字の紹介だ。まずは「肌」から行ってみよう。肌は「几」を音符とする人体の一部である。几は几帳面という時の「キ」で、机上の机も飢餓の飢も同じく音は「キ」ですね。
肝は「干」を音符とする形声文字である。干潮の干、朝刊の刊、汗腺の汗、旱魃の旱と音はみな「カン」である。そうそう。秋田の“竿灯まつり”の竿も「カン」でした。
脳も肉月を意符とする形声文字である。肉月を立心偏に代えると、悩殺の「悩」ですね。脳の付く漢字語には、脳膜、脳裏、脳死、脳髄、脳溢血、脳震盪、小脳、大脳、脳みそと豊富だが、その代表は頭脳であろう。
ところで、この頭脳の「頭」である。みなさん、おかしいと思いませんか。頭は身体のてっぺんにあり人体の一部に他ならないが、肉月ではない。
頭の音読みは、頭脳という時の「ズ」と頭部という時の「トウ」がある。「ズ」は大豆のズであり、「トウ」は豆腐のトウですね。つまり「豆」を音符とする形声文字なのだ。すると「頁」が意符ということなのだが、体の一部でありながら何故に肉月ではないのだろうか。それは尸だれと似ているのですね。人体の一部でありながら、腰近辺の漢字は「尸」が意符の役目を受け持った。
頁は「おおかい」と言い、“ひざまずいた人が大きな頭部をいただいているさまで、あたまの意を表す”と字解にある。つまり首から上を意味するのですね。ただ個人的には、「頁の下のチョンチョンを外して上に乗っけると首になりますね」と説明するのである。何の裏付けもない解釈だが、聞く方々は首を大いに上下させて頷かれること請け合いなのだ。
ここで頷くの登場だ。言うまでもない。これも首の上を意味する漢字である。これには頷首(がんしゅ)という漢字語がある。“うなずいて承知すること”なのだそうだ。音符が「(がん)」であるのは勿論ですね。
では、頁のつく形声文字をまとめてみよう。

        頭    項    頬    頷   顎
 音読み  トウ、ズ   コウ  キョウ   ガン  ガク
 訓読み   あたま  うなじ   ほほ  うなずく あご

頬の音符の「夾」は仁侠の侠、峡谷の峡、狭義の狭の「キョウ」である。顎は、驚愕という時の愕と同じ音で「ガク」であるのは言うまでもない。
日本語の中での漢字は優れものである。意符の「頁」によって、首より上を意味する漢字だということを示してくれ、音はその音符によって知らせてくれる。そして訓読みによって、その漢字の意味を教えてくれるのだから。

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