Tuesday, January 31, 2017

ひらかな・カタカナの誕生。



前回、中国語における外国語の翻訳事情をお知らせした。サラダは「色拉」、サンドウィッチが「三明治」、ファッションが「花臣」でウィスキーは「威士忌」だった。そして表音文字を持たない中国語では、外来語の発音に一番近い漢字を充てることでお茶を濁すのだと書いた。
そのことを書いて数日後、中国人街を運転していたら次のような看板が目に入ってきた。「酷! 啤酒」がそれである。何かの酒が「酷!」ということだが、解剖してみよう。まずは啤酒だ。啤酒とはビールのことである。ビールのビの音が、漢字では「啤」なのですね。
 山大力鞋や漢堡包と同じ乗りで、中国ではビールのことを啤酒と表す。「同じ乗り」の意味するところを説明しょう。サンダルの音訳が山大力である。そこへ履き物を意味する「鞋」を足したのが山大力鞋なのだ。草鞋(わらじ)の「鞋」である。
ハンバーガーの音は漢堡」とした。そこへパンを意味する「包」を足してハンバーガーの中国語訳にしたのである。中国では、パンのことを「麺包」と言う。
啤酒の謎が解けたところで「酷!」である。この頃の世の中を見ると、グローバルという言葉が良く使われる。何から何までグローバルである。言葉も例外ではない。
英語にcoolという単語がある。学生の頃はこれを「涼しい」と習ったが、「カッコいい」という意味に使われるようになって久しい。このような言葉は、またたく間にグローバル化するようだ。
日本では「クール」、韓国では「」である。言うまでもない。coolの音を日本語ではカタカナ、韓国語ではハングルを用いて表したのだ。問題は中国だ。表音文字がない。coolに一番近い発音を持った漢字「酷」を引っ張ってきてcoolとしたのである。それは酷だと思うのだが、これが、表音文字を有しない中国語の運命と言えるかも知れない。

ではついでに、東アジア三ヶ国におけるビールの呼び方が面白いので書き足そう。
日本人による初のビール醸造は1853年に遡るという。当時の日本人は、ビールを麦酒と名付けた。麦酒の読みを漢語辞典で調べると、「バクシュ / ビール」とあった。麦酒と書いて、昔はバクシュと読んだのだろう。だが、現代の日本では死語である。ところが、この麦酒という言葉を守り続ける国があるのだ。韓国である。韓国ではビールを(メッ)(チュ)と呼ぶ。「麦酒」を韓国式に読むと、まさに맥주なのである

ここまで書いて気が付いた。ひらかなとカタカナが生まれたプロセスを書こうとしていたのだった。
『漢字と日本人』高島俊男著(文藝春秋)より拝借しょう。その91ページに“だれかが「かなというものをつくろう」と計画的につくったものではない。自然にできてきたのである。かなはいまひらかなとカタカナと二種類あるが、はじめから「二種類つくっておいたらなにかと便利だぞ」ってんでできたわけでもない。”とある。そして“かなは、本の行間にチョコチョコッと書きこみをするところからうまれた。”と続く。
ここで一つ説明を加えよう。私は『漢字と日本人』との出会いによって、それまでの思い込みが根底からひっくり返るほどの影響を与えられた。そして、この方の書かれた『お言葉ですが・・・』シリーズとを通して、漢字圏の国々における日本語の立場を教わった。

続けて『漢字と日本人』から引用しょう。ひらかなとカタカナの生まれた経緯(いきさつ)である。
“で、むかしの日本人のばあい、書物の文章はお経でもなんでもとにかく漢字ばかりだ。そして書きこむのは――漢字だね。漢字しかないんだから。日本語を漢字で書く。行間だから場所はせまいし、手っとりばやくかけるほうがいいし、自分にさえわかればよい心おぼえなんだから、ごく簡略化して書く。たとえば「阿」を書くのに、左がわの「阝」だけを書く。「阝」のつく字はいっぱいあるから、「阝」だけでは「防」だか「院」だか、あるいは「部」だか「都」だかわかりゃしないが、自分にさえわかればいいんだから、「阝」は「阿」の略、と勝手にきめておく。その「阝」もきちんと書くんじゃなくて手ばやくサッと書くから長めの「ア」みたいな形になる。
あるいは「伊」の左がわの「イ」だけ、もしくは右がわの「尹」だけを書く。これなら手間もかからないし場所もとらない。
漢字の簡略化には大きくわけて二つのやりかたがある。一つは「阿」を「阝」、「伊」を「イ」、「宇」を「宀」というふうに、部分をとるやりかただ。もう一つは全体の姿はそのままに、部分を省略するやりかた。これは草書からきている。「以」を「い」、「呂」を「ろ」、「波」を「は」などがそうである。だいたいにおいてカタカナは部分どり、ひらかなは全体どりでできている。”
一つ付け加えておこう。この方の文章は少々読みづらい。和語には極力漢字を使わないようにしているからです。
例を上げよう。上に“手っとりばやくかけるほうがいいし”とある。これだと、ひらかなを一字一字追わなければならない。引き換え、「手っ取り早く書けるほうがいいし」と漢字を入れると、視覚を通して意味が瞬時につかめるので読みやすくなる。この方の場合は、和語にはむやみやたらと漢字を使わない主義だからやむを得ない。
一つ書き加えて終わりにしょう。上に『漢字と日本人』との出会いを書き記したので、もう一つの出会いを付け足しておこう。司馬遼太郎の『街道をゆく』である。このシリーズを通して、私は日本という国の歴史上の立場を教わった。

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