Friday, March 31, 2017

津和野が生んだ偉人。

  近代国家群から雪崩れこんできた数千・数万の西洋語を、新しい日本語を造語することによって対処しようという奇想天外を一手に引き受けたのが神田界隈であった。
 ペリー来襲の翌年、安政元年(1854年)に、幕府は日米和親条約を結んだ。その後、英国、仏蘭西、独逸などと立て続けに条約を結んでいった。それまでオランダ語以外の西洋語を受け入れる術のなかった日本は、条約締結後、英語、フランス語、ドイツ語などによる事務処理に難渋した。
オランダ語以外の西洋語の修得が急務であると悟った幕府は安政四年(1858年)、各藩から名だたる洋学者を集め、蕃書調所という外国語研究所のようなものを設立した。場所は今の神田小川町近辺であった。古本屋街のある神保町からすこし東よりのところである。

中国山地の山深くに“山陰の京都”と呼ばれる津和野がある。江戸時代には津和野藩として石見の国津和野周辺を治めた。ただ、中国山地の山奥に位置する盆地だったため産業と交易には縁遠く、四万三千石という小藩として生き続けた。
津和野は、明治の大文豪森鴎外を生んだ地として知られる。そして、西(あまね)を生んだ地でもある。西周は、現代の我々が用いる日本語を造語する上で、リーダーの役割を果たした人物であった。
『日本人と日本文化‐対談 司馬遼太郎 ドナルド・キーン』(中央公論新社)から引用しょう。

“あれは、私は江戸の中期くらいからだんだんそういう傾向になったと思うんですけれども、三百近く藩がありまして、五万石程度の小さな藩というのは、産業を興すにも起こせないし、資力もないし、なんとなく疎外されているような感じだったのですが、それが江戸の中期ごろから、学問という方向を見出し、藩ぐるみで一生懸命にやりはじめた。大藩よりもむしろ五万石程度の藩のほうがずいぶん学問熱心ですね。”

 漢学の素養を身につけていた西周は、1841年(天保十二年)より藩校養老館で蘭学を学んだ。このようにして西周が蘭学を授かったればこそ、後世の我々が日本語で政治を語り、哲学を語り、思想を語り、文学を語り、世界を語り、宇宙を語り、歴史を語り、未来を語ることができるのである。

“西周は日本における最初の人文科学者であったといっていい。京都で新撰組がチャンバラをしているとき、かれはオランダでコントの実証性哲学に傾倒し、経済学と法律学を専攻し、カントにもつよい関心をもち(中略)明治3年新政府につかえ、同五年に兵部省にも関係した。(中略)周は言葉の創造者でもあった。かれは西洋語を翻訳して我々がつかっている日本語をつくるのに大きな功があった。哲学、心理学、論理学の分野だけでなく、陸軍の用語も翻訳してどんどん新しい日本語をつくった。” (『街道をゆく 1 長州路』)

 西周の作り上げた和製漢語の例をすこし挙げてみよう。「心理学」では意識、知覚、感覚、直覚、理性、惰性、「論理学」では帰納、定義、命題、総合、分解、「哲学」では客観、主観、概念、抽象などがある。もちろん、心理学、論理学、哲学も西周の造語である。
 神田小川町に設立された蕃書調所の教授手伝並になった西周は、同じ神田小川町に居を構えた。その後、当時十歳の森鴎外が医学を勉強すべく、父親につれられて上京し、西周の屋敷にあずけられた。明治五年のことであった。
 津和野藩は中国山地の山中の小藩だったが、学問を重んずる藩であった。西家も森家も藩医の家で、川一筋をへだてて隣同士であり親戚でもあった。西周、森鴎外という近代日本を作り上げた二人の偉人が、津和野という小藩の、それも津和野川を隔てた隣同士の家から出たということが痛快である。

「民」という漢字がある。日本では昔から馴染みの深い漢字だが、漢和辞典の字解を見ると面白い。「民」は象形文字で、辞書には“針をさした目に(かたど)り、目をつぶされた奴隷、支配されたたみの意”とある。中国ではあまりよい意味に使われる言葉ではなかったようだ。
日本においては、人間という言葉が存在しなかった時代、武士・商人に対して民・百姓というふうに使われた。ところが、西洋の波が押し寄せhuman beingpeopleという単語を人間ならびに人民という新しい日本語を造ってからは、民の持つ概念が一変した。市民、国民、万民、難民、住民、公民、救民というふうに、人権を持った人たちという意味に変わっていった。
 人民・国民という概念を与えられた「民」は、民権、民法、民度、民意、民心、民政などの高級概念を表す言葉へと派生して行った。
とはいえ、「民」を馴染み深い漢字にならしめたのは、何といってもdemocracyを民主と訳したことによるだろう。英英辞典を広げると、“a situation or system in which everyone is equal and has the right to vote, make decisions etc”という説明が成されてある。すべての国民が平等であり、選挙権ならびに決定権を持つ制度ということである。その説明から、たぶん“一国の主権が人民にあること”と定義したであろう。そして、「民主」という新しい日本語を造って対処したのだった。
先に挙げた民権、民法、民度、民意、民政などは、「国民」の意味を基底とするとともに、「民主的」という意味合いも含んでいるように思う。

ここで余談を挟もう。北朝鮮の正式名称である朝鮮民主主義人民共和国は、朝鮮を除いた漢字語のすべてが和製漢語である。真っ当な熟語を並べあげた名称ではあるが、実際の国情は名称とはかけ離れすぎているのがおかしい。
中国の正式名も似通ったものである。毛沢東が国民党を破って新しい中国を樹立した折、新しい国名を考えるように側近に命じた。それが人民共和国とすべて和製漢語でできているのを見て、毛沢東が「これは全部日本語じゃないか」と嘆いたという逸話が残っているそうだ。

この「民」という漢字、日本では他にも使い道が多い。民芸、民具、民衆、民謡、民間など。この民間という便利な熟語は、官に対する「一般庶民の社会(世間)」ということで、民間と造語したのではないかと想像する。民間企業、民間放送などと使われ、官に対抗する熟語として重用される。

「民」とくれば「主」である。英語にindependent(-ce)という単語がある。independence dayというとアメリカの独立記念日である。その74日がアメリカ最大の祭典なのだ。
 他国の統治からの独立をindependentというわけだが、それと共に自主・自立という意味をも含め。英英辞典を引くと、The freedom and ability to make your own decisions in life, without having to ask other people for permission, help, or moneyとある。訳すと、“他人のゆるし、助け、金銭的な援助を求めることなく、自らが決定し、行動し得る力ならびに権利”である。
 当時、古来からの身分制度の下independentという概念のなかった日本において、これを訳すことは大変だったに相違ない。おそらく“自らが主人”と要約し、「自主」としたのだろう。国家的な規模では「自主」となり、人間的な規模では「自立」となった。
「自主」という和製漢語の誕生により、independencyautonomyvoluntarilyself-reliant defenseなどの政治用語あるいは法的用語を訳す上で大いに役立ったはずである。順に、自主性、自主権、自主的、自主防衛と訳された。
 またsovereign countryは、自主的に自ら国を治める国家ということで主権国家と訳された。
 
 漢語辞典を引くと「主」は象形文字で、“燭台で燃えている火の形に象る、じっとしている意。転じてあるじの意”との説明が成されてある。
日本でも古くから使われ、亭主、坊主、神主、荷主と「ぬし」あるいは「あるじ」の意味で使われてきた。このように、あるじとかぬしという意味でしかなかった「主」という漢字が、自主あるいは主権と訳されたことによって、一挙に抽象的で高尚な意味を持つ漢字に変身していった。
客観(objective)に対する主観(subjective)というように、「主」は哲学的な表現に使われる漢字に昇華されることになった。
なお、principalleadingchiefmajorimportantなどの語は、物事の中心になって大切である様を表すわけだが、これらを「主要」と訳した。このことによって「主」という漢字に、かなめ、たいせつな、おもなという意味が付加され、主意、主因、主眼、主旨、主題、主潮、主調、主流など、あらゆる分野において頻繁に用いられる言葉群が造られることになったと考える。



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