Friday, April 14, 2017

翻訳の困難さ。



 新しい日本語を造語する上でのリーダー役を果たした西周は、津和野盆地が生んだ。津和野は中国山地の西のほうである。中国山地の東のほうには津山盆地がある。現在の岡山県津山市である。津山盆地には作州津山藩があった。津山も津和野同様、学問を重んじる藩であった。
 ここに箕作(みつくり)家という代々洋学をもって幕府につかえる家系があった。そのひとり箕作麟祥(りんしょう)は、文久元年、蕃所調所教授手傳として幕府につかえた。明治維新の前年1867年に幕府から派遣されて渡仏し、翌年帰朝後、新政府から一等訳官に任ぜられた。屋敷は勤務先の近くの神田神保町に構えた。

“新政府は、当初、どんな国家をつくっていいか、わからなかった。戯画的にいえば、私はどこへ行ったらいいのでしょう、と辻できいているようなものであった。
「法にむかいたまえ」
 という人がいた。
「法とは、すなわち国です。国をつくるというのは、法をつくることです」”
(『街道をゆく 36 神田界隈』)

法のない状態で国家ができた明治政府としては、法律の作成が先決問題であった。当時の司法卿江藤新平は箕作麟祥に白羽の矢を立て、“仏国五法(民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法)”の翻訳を命じた。
フランス留学をしたとはいえ、わずか一年間の渡仏である。フランス語の翻訳、それも法律の翻訳など無理な注文だったろう。ただ、代々蘭学をもって幕府につかえた家系だけにオランダ語は得意で、「仏蘭辞典」をたよりに翻訳に没頭したようだ。

“翻訳の困難さは、法律用語一つずつに、それに見あう日本語や、似合った概念が日本にすくなかったことにもよるだろう。箕作は、日本語からして創り出してゆかざるをえなかったのである。”(『街道をゆく 36 神田界隈』)

箕作は五年の歳月をかけてフランスの諸法典を全訳し、1874年『仏蘭西法律書』を世に出した。日本国初の近代法典である。その後の日本の近代的法制度の整備に多大な影響を与え、日本における法律学の基礎を築いたのは言うまでもない。その功績により、箕作麟祥は「法律の元祖」と評される。権利、義務、動産、不動産なども彼の創作である。
 同じく、蕃所調所に津田真道(まみち)という洋学者がいた。この人も津山藩の出身である。文久二年、幕命により西周、榎本武揚らとライデン大学に留学し法律学を学んだ。民法・治罪法などの西洋法律書を訳す作業に従事し、『統計学』という統計学の翻訳書を著した。
 また加藤弘之という洋学者も蕃所調所において翻訳作業に従事し、『西洋各国立憲政体起立史』という翻訳書などを著し、日本の法体系の確立の上で大きな貢献をした。明治23年には、東京帝国大学総長に任命された。
 蘭語に秀でた多くの洋学者が、日本全国から蕃所調所に集まった。そして、新しい日本語の造語に没頭した。しかし、このことは一朝一夕に成されるようなものではなかった。現在我々が使う熟語になるまでには相当な紆余曲折を経ている。

“たとえば、憲法ということばでさえ、明治十年代のおわりごろまで不安定だったのである。
 慶応二年版の福沢諭吉の『西洋事情』では「律例」といい、慶応四年の加藤弘之の『立憲政体略』では「国憲」と訳されており、同年の津田真道の『泰西国法論』では「根本律法」になっている。(中略)また、インターナショナル・ローのことを国際法と訳したのも、明治六年、箕作麟祥だったという。幕末では「万国公法」といい、明治二年出版の訳書(福地源一郎・訳)には、「外国交際公法」とあるそうである。”(『街道をゆく 36 神田界隈』)

紆余曲折の模様を身近なところでいくつか紹介してみよう。
Encyclopediaは言うまでもなく百科事典であるが、その変遷を追うと面白い。明治1年に「諸学問」、同4年に「万学字典」、同6年に「節用集・学術字林」、そして同18年には「百科全書・学術辞書」と訳された。明治20年になると、今度は「博学・合類節要・学術類典・百科字類」などへと変遷した。同21年には「三才図会」へと、同41年には「叢書」へと変わった。そして、大正3年になって「百科辞書」となり同7年に「百科事彙」「全書」へと変わり、昭和6年になってやっと「百科事典」で落ち着いた。
Egoist(エゴイスト)は「利己主義者・自己中心主義者」と訳されるが、その移り変わりを辿ってみよう。文久2年の「利得を得たがる人」が初めての翻訳で、明治4年に「我欲人」、同6年に「慈愛者・自惚れ人・私欲人」となり、同36年に「利己主義者」という翻訳が成される。大正15年には「自己中心主義」となりそれで固まるが、その後も色々な訳語が現れ、昭和6年には「独り天狗」とか「我利我利亡者」などと訳されもした。
ところで、egoistを文久2年の「利得を得たがる人」、明治6年の「自惚れ人」などと用いていたなら、他の漢字圏の人たちには使用不可能だったと考える。利己主義者や自己中心主義で初めて音読みが可能なのだ。他の漢字圏の国々には、訓読みはない。

比較的新しい外来語に「OK」がある。日本に初めて上陸したのは大正7年で、「宜しい・間違いなし」と訳された。昭和2年に「相違なし」、同5年に「完了・件の如し」、同6年に「検査済み」、同7年に「おっと承知の助・合点だ」への変わっていった。そして昭和9年には「承認・承諾・承知」と変わったが、結局どれもしっくりこなかったのか、オーケーで落ち着いたようだ。
 現在地球上で最も親しまれ、どこへ行っても通じる言葉が「OK」である。このOKの誕生の秘密を紹介して終わりにしょう。誕生した日にちは1839323日である。ボストンのMorning Post紙の編集長C.G.Greenが、上がってきた原稿に、間違いなしを意味する「All Correct」をわざと同じ発音の「Oll Korrect」と書いたのが始まりらしい。いたずらで書いたOll Korrectの頭文字を取って出来たのが「OK」なのだ。それが世界中で愛用される言葉になったのだから不思議である。参考まで。

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